ぼくでありわたしであるミカちゃんと 『スキップとローファー』について

はじめに

自分が興味を持っている事柄がジャンルを超えて「つながる」ことが時々あります。最近興味を持っているのは「マインドフルネス」「認知行動療法」「スキーマ療法」といったキーワード。これらの治療法の考え方を大ざっぱにまとめると「自分の考え方にはクセがある。そのクセを見つけることで生き辛さを減らすことができるのでは」といったところでしょうか。詳しいことは適当にネットで拾ってほしいんですがとりあえず自分が目的としているところは「生き辛さの軽減」ということです。

そして、月刊アフタヌーンで連載している高松美咲先生の『スキップとローファー』はこの「生き辛さの軽減」の物語として自分の中で上のキーワードとつながっているなぁと3巻まで読んでうすらぼんやり考えたので記録を残します。あと「これ自分じゃん!」とも思えるキャラをひとり見つけてしまったので、「このマンガがすごい! 2020」の発表に便乗して作品の魅力を書いていきます。

 

 

秒で評価しないことの大事さ

まず、『スキップとローファー』とはどんな話か説明すると、

岩倉美津未、今日から東京の高校生! 入学を機に地方から上京した彼女は、勉強こそできるものの、過疎地育ちゆえに同世代コミュ経験がとぼしい。そのうえちょっと天然で、慣れない都会の高校はなかなかムズカシイ! だけど、そんな「みつみちゃん」のまっすぐでまっしろな存在感が、本人も気づかないうちにクラスメイトたちをハッピーにしていくのです!【アフタヌーン 公式サイトより】

といった感じで田舎から来た女の子が、様々な人達(主にクラスメイト)と関わり、その素朴さで周りの人間関係を少しずつ変化させていく物語。3巻までの単行本の帯文も、

みつみといればいつのまにかハッピー。

みつみといればいつのまにかスマイル。

みつみといればいつのまにかジョイフル。

【『スキップとローファー』1~3巻帯文より】

 と一貫したキーワードで表現されています。

 

劇中で言うと、

・オタク寄りで自分と違う人柄の人とうまく付き合えない女子のまこっちゃん

・異性からも同性からも誤解されやすい美人のギャル、ゆづちゃん

・元子役のイケメンで、誰にでも優しいがどこか影のあるシティーボーイの志摩君

等々といった面々と関わり、彼らの他人との関わり方をやわらかく変化させていきます。

 

なぜ彼女はこのようなタイプの違う人達と関わり、関係性を築く事ができるのか? その理由のひとつは彼女が人の言葉や態度をすぐに判断しない、評価を保留できる子であることが大きく関係しています。上述のキーワードに関連した言葉でいうと、自分の考え方のクセを意識した上で、自分の周りで起きていることをただ観察する、フラットなもののとらえ方ができるということです。人付き合いの上で発生しがちな偏見が非常に少ない。

 

例えば、1巻には次のようなシーンがあります。

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【『スキップとローファー』1巻 93,94ページ Scene②そわそわのカラオケボックスより】

 このシーンで彼女は言われた言葉を悪い意味でとらえることの「判断を保留」し、素直な気持ちで言葉を返すことを選択しています。そして実際に画像の女の子は単純に、「オシャレなのか自分はよく知らないから教えて?」という意味で聞いていたことが後にわかります。もしここで即座に悪い意味で受け取っていたら、彼女に対してイヤなやつという偏見を持ち、以降良好な関係性を築くことは難しくなっていたでしょう。

 

上述のキーワードの「マインドフルネス」とからめると、

マインドフルネスとは

自らの体験(自分自身をとりまく環境や自分自身の反応)に、リアルタイムで気づきを向け、評価や判断を加えずにそのまま受け止め、味わい、手放すこと。

伊藤絵美 『つらいと言えない人がマインドフルネスとスキーマ療法をやってみた。』 76ページより】

と定義にあり、評価や判断を加えずにそのまま受け止めるという点でみつみちゃんの人との付き合い方は実にマインドフルです。判断を加えず(超重要!)、自分がいま感じていることを味わい、感覚を観察することができているので、出てくる言葉や行動に自分の感情をシンプルに乗せることができています。また、自分の感情に寄り添っているため、無理なく、自分を殺すことなく人と付き合うことができる。実はとてもとてもすごい能力です。覇気とか念能力よりもつよい。

 

そしてこうした穏やかなコミュニケーションのとり方は本人も気づかないうちに周りの人々を感化し、時に凝り固まっているクラスメイトそれぞれのコミュニケーションのとり方をほぐしていきます。そうしたことを積み重ね、みつみちゃんとクラスメイト達の時間は緩やかに流れていく……というのがこのマンガの基本の流れです。ちょっとおもしろそうでしょう?

 

いわゆる派手さはないですが、人間関係を丁寧に描き、他人との関わり方にある種の気付きやヒントをもたらす物語です。みつみちゃん自体も素朴に描かれているので、こういうマンガにありがちな説教臭さを感じることもなく、するりと読めます。

それとなんとなくですが、SFものである前作の『カナリアたちの舟』に比べると絵柄がポップというか少しリアルさを減らした風に描かれている感じもあって、絵柄の方もなるべく説教臭さや現実の人間関係のダルさを感じさせないように配慮して変化させているのでは? とも思っています。

 

 

ぼくでありわたしであり

そして、このマンガを押すもうひとつの理由が魅力的なサブキャラクターの存在です。このマンガはみつみちゃんのためだけの物語ではなく、むしろその周りの人々に感情移入できる要素が多い作品です。その中で私が特に感情をグイグイ持っていかれているのが、江頭ミカちゃん。

 

彼女は様々な点でみつみちゃんと対照的な女の子です。作中の言葉を引用すると

 

他人に厳しいが自分にも厳しいストイックな女の子【『スキップとローファー』3巻表紙裏4コマより】

 

彼女がメイン回の話から、象徴的なところをひとつ。

 

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【『スキップとローファー』2巻 76~78ページ Scene⑧チクチクの個人練習より】

 

 

ここでもみつみちゃんとの対照で描かれていますが、軽くふたりの違いをあげるとこんな感じ。

みつみ・・・他人をすぐに評価しない→自己を否定しない、自信、自己肯定感、認知のズレが少ない

ミカ・・・すぐに評価する→自己否定、無力感、認知のズレが大きい(自己評価がすごく低い)

 

と、人を上下や優劣で評価する価値観が身についてしまっている感のある子です。これだけ書くと単なるイヤなやつに思えるかもしれませんが、「普通より少し上」とか「何者かになりたい」ということへのあこがれが少し強いだけの普通の、心根の優しい女の子です。人に厳しい分、自分のことを顧みてよく反省もしています。しかもすこし過剰なまでに。

というかこの子に限らず、多かれ少なかれ、こういう目線で自他問わず判断や評価をしてしまうことって考えてみるとけっこうありませんか? 自分はバリバリにあります。すぐに他人を評価することによって、「じゃあ自分はできているのか? 人のこと言えるのか?」みたいに感じて自己嫌悪に近い感情を持ったりしてしまうこともしばしば……。彼女はみつみちゃんに「なれない」読者の視点代表のキャラであると思うのです。

みつみちゃんのコミュニケーションのとり方は作中である種の理想像として描かれている面があります。でも彼女みたいなコミュニケーションが取れたらなぁと思うと同時に、そんなコミュニケーションが早々簡単に習得できるけぇ、と思う自分もいて、そこからこぼれ落ちてしまう人、みつみちゃんのまっすぐさを目の当たりにしたときに自分にはできないと顧みてしまう人につい感情移入してしまいます。『うしおととら』だと秋葉流とか。

なので正直1巻の段階ではもしかしたらこの話は自己肯定感の低い人間にはキツい話になるかもな、との思いがありました。このままミカちゃんはみつみセラピーを受けることができず、悶々とした思いを抱えながら変わらず生き続けていくことになるのでは? と。

けれどもそこに対しても高松先生は別な視点から補助線を引いていて、3巻でみつみちゃんのおばのナオちゃんとの交流を用意します。詳細は買ってほしいので省きますが、ミカちゃんはひとり心強いメンターを得ることになります。ナオちゃんはナオちゃんで生き辛さを乗り越えた大人として、めっちゃ良い先輩・師匠クラスのキャラなのですがそれも書くと長くなりそうなので割愛。

とにかく3巻では、いままでみつみセラピーの外側にいた感のあるミカちゃんにひとつ変化するための要素が加わります。ここから私は、彼ら彼女らを見つめる高松先生の優しい、救いの目線の存在を感じました。何者にもなれないかもしれないとの思いを抱えるミカちゃん、彼女はこの物語のひとりの登場人物にしか過ぎませんが、高松先生は優しい目で彼女を見守っています。みつみちゃんのようにはなれないかもしれないけどきっと彼女はこれからも少しずつ少しずつ変化していくことができるし、きっと今モヤモヤを抱えている他の登場人物にも救いがあるだろう、ひとりの登場人物の描き方からからこの作品全体への信頼感がグッと増した、そう思える描写でした。3巻で高松先生へのなつき度が急に上がってしまった……!

 

 

とりあえず買うてみて

まとまりがないですが、『スキップとローファー』について書き殴ってみました。こうして書いてみると自分はみつみちゃんの物語より、その周りの登場人物や自分自身の生き辛さにまつわる物語として響いたから読んでいるんだなぁと改めて思いました。そして私の場合は特にミカちゃんに共感したのですが、きっとこの作品で感情移入するキャラは人それぞれ、自分が感じている生き辛さの問題によって変わるのでしょう。でもきっとそんな彼ら彼女らが少しずつ変わっていく姿を通して、過去の自分が悩んでいたことや今自分が抱えているモヤモヤへのアプローチを見つけて「Ifの自分」を模索することができるのかもしれません。このマンガにはそんなヒントがちりばめられているような気がします。

 

 

今年の正月

 「元号が変わるのなんてどうでも良いけど俺達の10年代が終わるのがショックすぎる」と師走に会った先輩は言っていたが、特になんの感慨もなく年を越し(ハライチの年越しラジオ聞いてた)、いつものように親戚と集まり、お笑いを見て、そこそこ混雑する地元の神社に行き、あいも変わらぬ正月を過ごしていた。

 

 一点いつもの正月と違うこととして、『男はつらいよ  おかえり 寅さん』を家族で観た。「正月は寅さん」というかつてあった正月のファミリーイベントを追体験できるのがちょっとおもしろい。本当は気合を入れて少し遠出をして松竹の映画館で観ようかなとも思っていたのだけれど、国道沿いのショッピングモールに併設されたシネコンで映画を観て、ついでにモール内のチェーンのレストランで食事を済ませる。これはこれで現代の家族って感じで良いイベント消化だった。

 

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 映画は48作目の「紅の花」から25年後の現代が舞台で主役は甥の満男へと世代交代。1作目が1969年だから95年の「紅の花」なんて相対的に最近の気がしていたから改めてシリーズの長さに驚くし、当然のように今作に出ている浅丘ルリ子にも驚く。シリーズ終盤は明らかに衰えが見えた渥美清がその後すぐ亡くなられたわけで、さすがにメイクは多少濃くなったとはいえ、劇中では“あの”名マドンナ「リリー」の凛とした佇まいを崩さないのはさすが。前田吟倍賞千恵子もご健在。博もさくらも良い年の重ね方をしているんだなぁという感があって良かった。48作目からご高齢だった役者陣はしょうがないにしろ、こうして当時の主要キャストが自然な形で集合できたのを見れて幸せ。ディズニー見てるか?

 

 映画の作りも公式が作った寅さんMADといった感じだったけど特に大きな不満もなく面白かった。現代の満男が過去の名シーンを劇中に挿入するために、そのシーンの前置きになる舞台を整えるように話をまわす。リマスターされてきれいになった寅さんのやらかしや名シーンを観て、そのたびに笑い、泣く。観たことのあるシーンでもそのタイミングや回数がしつこくないので、つい笑ってしまう。よくできたファンムービーですわ。

 

 過去作の映像以外だと、橋爪功演じる老人ホームに入居した泉の父親が満男から金をせびるシーン。ここは客も笑っていた。末期の老人を湿っぽくしないで、笑いで締めるのが山田洋次っぽい。以前なにかの本で監督が「笑われる本人が笑わせようとしないで、本気で怒ったり悔しがったりしているから観客は笑うんだ」(超意訳)みたいなことを言っていたのをおぼろげに思い出した。これが多分そういうことなんだろう。

あと、橋爪功がもらった万札を速攻で首から下げたがま口財布にグシャグシャにねじ込むシーン。「ああ、この人と関係築くのはダルかろう」と思わせる。半ばイッちゃった目の演技もすごかった。

 

 やっぱり今作でもマドンナの家族や身辺は少し機能不全を起こしてて、それを助けようとする主人公(今回は満男、過去作では寅)、対比されるようにでてくる幸せなとらやのお茶の間。こういった要素も過去作から踏襲されてて良かった。他にもファンムービー要素はたくさんあって、映画のスタートは夢からのタイトルバックドーン、刃牙の全選手入場ばりに全マドンナの映像を入れたりと、全作見てきたファンを楽しませたろうという作り手の気持ちを感じた。寅さんがその身を持って伝えてきたことは形を変えて満男に受け継がれている感もあったし、家族の評判も桑田佳祐の歌うテーマ曲が若干クドいくらいで上々だった。年末のスター・ウォーズのモヤモヤを上手いこと消化できたような気がするけど、というかなんで松竹にできてディズニーは上手いこと継承ができなかったんですかね…とちょっとまたゴニョゴニョしてしまうからこの件については考えるのをやめよう。まぁまとめると良い年明けだったということで。